
ベネチアンガラスについてちょっと・・・
ベネツィアのガラスづくりは、一説によると古代ローマの直系として、早くも6〜7世紀には始まっていたとも伝えられているが、記録上では紀元982年にドメニコという名のガラス吹き職人が存在したことが確認されていることからも、すでに10世紀にはベネツィアでガラスがつくられていたということが確実とされている。
当時のベネツィアは、ほかのヨーロッパ諸国に先駆けて東方との交易をはかったことにより、地中海沿岸の優れたガラス器を輸入するとともに、ガラスの職人や技法をも導入することによって、独自のガラスづくりを次第に定着させていった。
そして13世紀に入ると急激な展開をたどり、イスラム風のエナメル彩なども駆使してベネチアン・ガラスの名声を高め、早くも1268年にはガラス職人の組合が結成されるほどに職人の数も増大していた。
1291年、政府は火災防止を理由に挙げ、ガラス工場と職人達を1.5キロ沖にあるムラノ島に移動集結することを決定、実行したが、これは、珪石やソーダ灰などのガラス原料をすべて国外に求めなければならなかった資源の乏しいベネツィアが、諸外国からは垂涎の的とされていたガラスの製法が、国外に漏洩するのを防止するための自衛策でもあったのである。
職人達には非常な恩典を与えるとともに島外不出を厳守させ、外国人との接触や逃亡に対しては重刑や死刑を定めるとともに、国外職人の帰国にも重課微金を設けて機密保持の徹底をはかった。いわばこの島全体が、国家財源を潤すために働かされる永世強制収容所であり、奴隷島であったといってもいい。華やかなベネチアンガラスの背景には、こうした苛酷な犠牲を強制されていた人々がいたのである。そしてこうした背景の中14世紀の政治的混乱によって生産の低下したイスラム・ガラス器の激減を補う役割も加わって、技術水準も生産も向上し、15世紀にはその最盛期を迎えるに至った。
その契機となったのが、15世紀半ばにアンジェロ・バロビエールが発明したと伝えられている「クリスタッリーノ」と呼ばれた、水晶石に似た純度の高い透明ガラスの出現であった。
この無色ガラスや色ガラスのほか、中国磁器を連想させる白い地肌の「ラッティモ(乳白ガラス)」などで、当時用いられていた銀製の食器類に原形を求めた器体を宙吹きにし、それにエナメル彩や金彩によって加飾をほどこした装飾には、当初のイスラム風点綴文から次第に独自の工夫が展開されて、15世紀末には人物文なども出現するようになった。
またそのころになると、モザイク模様の色ガラス棒(ムリーナ)が発明され、それをスライスして熔着させる「万華ガラス(ミッレフィオーリ)」と呼ばれた装飾技法も登場して注目を浴びた。
16世紀に入ると、吹きガラスによる優美で軽快なフォルムが盛んとなり、その透明な肌にダイヤモンド・ペンシルによる線彫りで繊細な花柄やアラベスク風の模様をほどこしたり、乳白ガラスの細い線で網目やもつれ合う線模様を描き出す「レース文ガラス(レティチェッロ)」、さらには温度の急変を利用し成形したガラスの表面に、小さなひび割れと皺を招いて加飾するアイス・ガラスのほか、焼成エマイユに代わる冷たい絵付け(ピットゥーラ・ア・フレッド)など、多彩な技法も次々と開発されて、ヨーロッパ全土の貴族社会からまさに「用」と「美」の芸術として歓迎されるに至った。
しかし、このようなベネチアン・ガラスに対する諸外国の称賛と羨望とは、やがてムラノ島外不出の掟に束縛されていた職人達の引き抜きに転じ、次第に職人達の流出が誘発されて、当局がひたすら秘匿をはかったガラス技法も、アルプス以北の諸国に拡散していき、いわゆる「ベネツィア風(ファソン・ド・ヴェニス)」の名のもとに一括された名品を、各国で誕生させることになった。
たとえばフィレンツェのコシモ・デ・メディチは、ベネツィアのガラスと対等の質にまでフィレンツェのガラスの内容を向上させようとして、たびたびスパイを放ち、陰謀をめぐらして、ベネツィアのガラス職人の引き抜きを謀った。そしてついに、名職人ボルトロ・ディ・ルイージの引き抜き工作に成功したという逸話がある。ラファエロの絵と同じ大きさの鏡が、ラファエロの絵の値段よりも2倍も3倍も高価だったというのであるから、当然といえば当然のことである。
また、ベネチアン・ガラスの製品では、最大の収入源となっていた鏡やシャンデリアの秘法もついには漏洩を防ぎきれず、1662年には12人の鏡職人がフランスに流出し、ベルサイユ宮殿の鏡の間の誕生をみるに至ったのは、周知の挿話であろう。
こうして、ヨーロッパにおける独占態勢を喪失し始めたベネチアンガラスは、新たな製法による透明度に優れたイギリスの「鉛クリスタル」と、ボヘミアの「カリ石灰ガラス(ボヘミアン・クリスタル)」の出現によって追い討ちの打撃を受け、重大な危機を迎えることになった。
ヨーロッパ各国は18世紀に入って、新しい産業主義が始まり、自国産業を保護するために、競争力の弱い分野の製品に高率の輸入関税を課して、自国の産業を保護する動きが活発になってきた。
ベネツィアをはじめ、ボヘミア、イギリスのようなガラス産業が高度の発達をみせていた国を除いて、どの国も自国のガラス産業を保護するために、ガラス製品の輸入に対して高率関税を賦課した。このため、ガラス生産国の輸出は激減して、倒産するガラス工場が続出するようになった。ベネツィアのムラノ島のガラス工場も、その例外ではなかった。高率関税でも乗り越えてゆけるような、付加価値の高い製品の開発が要求されるようになった。
そのために、かつてのムラノ島では手がけたことのなかったグラヴィール彫刻やカットの技法も導入した製品が作られた。また、ベネチアンガラスの一分野として重要な位置を占めていたガラス・モザイクも、従来のような1センチ角のサイズではなく、もっと細密な表現を可能にした1ミリ角のガラス・モザイクさえ作り出された。さらには、時の流れや社会状況の変化より超脱した強力なスポンサーであるキリスト教会に対する売り込みも盛んになり、教会のインテリアなどが積極的に作られるようになった。関税のないアフリカや東南アジア向けの輸出トンボ玉も盛んに製造された。ガラスの装身具や、使うことを目的としない装飾品、洋服のボタンやステッキの握り手、ドアノブ、子供のおもちゃなど、あらゆるものが手がけられた。そしてこの苦境に駄目押しの一撃を加えたのが、ナポレオンによるイタリア遠征と、1797年のベネツィア共和国の解体であった。
1806年、ベネツィア共和国の解体からちょうど10年後に、ムラノ島の500余年続いた由緒あるガラス職人組合は解散を余儀なくされた。固い団結と、強力なベネツィア政府の庇護の下で、歴史の大波にも沈没しなかったムラノ島のガラス産業は、今や安心できる防波堤を失ってしまったのであった。
輸出が落ち込み、政府の指導もなく、仲間と相談する土俵もなくなって、ムラノ島のガラス職人達は途方に暮れていた。しかし、時代は確実に近代化の道を踏み出していた。
色ガラスの生産を特徴としていたベネツィアのガラス工芸にとって、他国のガラス産業にはできない最大の利点が、色ガラスを基本にしたガラス製品を作ることであった。そしてその一つがガラス・モザイクの生産であった。古い教会のモザイク壁画の修復には、ガラス・モザイクが必要であった。戦争で荒廃した古建築の修復は、古墳保存のブームに乗って各地で盛行した。ベネツィアは、黄金モザイク・ガラス(金箔サンドウィッチ)を作ることができる唯一の産地であった。併せて、新しい建築用の照明器具や建材、あるいはインテリア部門に、新しいジャンルを拓いてゆくこともできるようになった。
危機からの脱却をはかるベネチアンガラスは、時代の尚古趣味を反映して、過去の製品と技法に立ちかえったレース文ガラスや万華ガラス、玉随・瑪瑙ガラスの再現で多彩な展開を示した。 ピエートロ・ビガリア、ロレンツォ・ラディ、ベンベヌート・バロビエール、ヴィットーリオ・ゼッキンなどのガラス作家も登場して、質的な向上に力を尽くしたが、しかし、ガラス作家の本格的な参入は第一次世界大戦を経過した1920年代になって、パオロ・ヴェニーニが登場してから以後のことである。
1923年、工房のオーナー兼デザイナーとなって制作に乗り出したヴェニーニは、早くも1925年のパリ国際博で好評を博すると、伝統的な職人の技術と優れたデザインの結合を目的とし、建築家のジオ・ポンティやトマーゾ・ブッティ、スウェーデン陶芸家ティラ・リンドグレン、フィンランドのタピオ・ヴィルカラ、さらにはサルヴァドール・ダリなどにも協力を求めて、工芸ガラスにおける芸術的創造性を追求した。
このような制作の理念は、また、父ベンベヌートから工房を引き継いだ、エルコレ・バロビエールによっても実現され、かつてはガラス職人達の長である親方(マエストロ)を中心に稼動していたベネツィア(ムラノ)の工房にも、次第に外部から参入した芸術家たちによるデザインの製品化が不可欠となり、約千年におよぶ歴史と伝統のなかで、時代の推移に対応する合理化が求められるようになったのである。
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